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第2話 15秒の広告で100コイン

作者: なつめ
last update publish date: 2026-09-03 10:17:42

午前6時を告げる電子音が鳴った瞬間、扉の外を満たしていた濡れた呼吸音が途切れた。赤かった非常灯は白へ戻り、室内端末には〈夜間保護を終了します〉という表示が淡々と浮かんでいる。灰乃はベッドの端から立ち上がると、銀色のピルケースを鞄の内ポケットへ収め、時刻が6時1分であることを確かめた。心臓は寝不足を責めるように重く打っていたが、薬を追加するほどの乱れではない。あと6分で、5階非常口の横へ紫色のランダムボックスが現れる。

解錠した扉をわずかに開くと、冷えた廊下から血と鉄錆の匂いが入り込んだ。昨夜まで登志江だったものは、扉から数歩離れた壁際に倒れているらしく、白い靴下を履いた片足だけが視界の端にあった。灰乃は顔を向けず、その足を避けて廊下へ出た。見れば何かが変わるわけではなく、見なければ死が消えるわけでもない。それでも今は、義母の最期を確かめるために使える時間がなかった。

階段室には、夜のあいだに何度も何かが這い回った跡が残っていた。手すりには黒ずんだ指の筋が続き、踊り場の壁には爪で削られたような傷が幾重にも走っている。灰乃は足音を抑えながら5階まで下り、非常口脇の消火栓へ身を寄せた。端末の数字が6時6分から7分へ変わるのと同時に、何もなかった床の上で紫の光が四角く凝固する。鈴を転がしたような短い音のあと、膝ほどの高さの箱が現れた。

1周目でも、灰乃は同じ場所で同じ色の箱を手に入れていた。中身は一定時間ごとに少量のコインを生み出す希少設備で、仕組みを理解した航志は、灰乃が自室へ設置するより先にそれを取り上げた。「夫婦なんだから、どっちが持ってても同じだろ」と笑い、設備を運び込んだ先は泉帆の居室だった。彼女の扉を早く強化しなければ危ないという理由で、灰乃が見つけた設備から生まれたコインは、最後まで灰乃のために使われなかった。

紫の箱へ触れると、所有権を示す輪が灰乃の手首を1度だけ巡った。彼女はその場で開けず、廊下の突き当たりにある清掃用具室へ運び込む。折れたモップや洗剤の容器が押し込まれた狭い室内で鍵を掛け、換気口にも人影がないことを確かめてから蓋へ手を掛けた。紫の光が指の間から漏れ、箱そのものが砂のような粒子へ崩れていく。しかし、床へ残ったのは記憶にある銀色の設備ではなく、光を吸い込むような黒いスマートフォン型の端末だった。

〈特殊権能・広告恩寵を獲得しました〉

文字を読み終える前に、端末から場違いなほど明るい音楽が流れ出した。画面では、終末以前の住宅街を思わせる背景の前で、黄色い服を着た女が両手を広げて笑っている。白い歯を見せたまま、女は空から降ってきた金貨を抱え込み、弾んだ声を張り上げた。

『15秒見るだけ! 初心者応援100コイン!』

右上に表示された秒数が減り始める。灰乃が一瞬だけ扉へ視線を向けると、残り11秒で映像が止まり、〈画面から目を離さないでください〉という注意が赤く点滅した。音量を下げるため側面へ触れても反応はなく、軽薄な音楽だけが清掃用具室へ響き続ける。灰乃は端末を両手で持ち直し、女の過剰な笑顔を正面から見つめた。

15秒後、〈100コインを獲得しました〉という通知が現れた。生存報酬と合わせた残高が増え、その下から間を置かず新しい広告がせり上がる。今度は筋肉質な男が金色の数字を持ち上げ、背後では紙吹雪が舞っていた。

『もう1本見ると報酬2倍! 今だけ200コイン!』

廊下の遠くで、誰かが助けを求めて叫んだ。声は途中で鈍い衝撃音に遮られたが、灰乃は画面から目を逸らさなかった。自分が扉を開けても間に合う距離ではなく、ここで得られるものを失えば、後で助けられたはずの自分まで死ぬ。広告の男は外の悲鳴など存在しないように笑い続け、15秒が終わると約束どおり200コインが加算された。

3本目は〈次回広告報酬2倍券〉、4本目は保存水と高栄養ビスケット、5本目は300コインだった。灰乃は倍率券を適用し、600コインへ変わる表示を確認する。さらに再生可能な映像をすべて見続け、明るい家族、清潔な食卓、笑顔で鍵を受け取る若い夫婦を黙って眺めた。「無料」「限定」「今だけ」と踊る文字の外側では世界中で人間が死に始めているのに、端末の中だけは昨日までの消費生活を手放していなかった。

最後の広告が終わった時、残高は他のプレイヤーが生存報酬だけで数日を過ごしても届かない額へ増えていた。報酬一覧にはコインのほか、親指ほどの透明容器に赤い液体が封じられた〈誘導臭カプセル〉も加わっている。説明欄には、作動から30秒後、周囲の感染体を設置地点へ引き寄せ、効果は3分間持続すると記されていた。便利な品であるほど用途を誤れば自分の死を呼ぶが、灰乃には使う場所がすぐに思い浮かんだ。1周目の地下倉庫で、篤一が立っていた位置と、逃げ込んだ防火扉の重さまで覚えている。灰乃は容器をアイテム欄へ移し、黒い端末を鞄の底へ隠してから自室へ戻った。

居室の強化を選択すると、薄かった扉の表面を黒い金属が覆い、蝶番と錠が内側から太く組み替えられた。LEVEL2の表示が点灯した直後、灰乃は残りのコインを確認してLEVEL3を選ぶ。床下で巨大な歯車が噛み合うような振動が続き、壁の一部が開いて6つのアイテムスロットへ変わった。夜を1度越えただけの部屋とは思えない強度を得た扉へ掌を当てると、昨夜、登志江の拳が薄い鋼板を震わせていた感触が遠いものになった。室内端末の世帯欄には、登志江の名が灰色へ変わり、航志と篤一だけが生存表示で残っている。灰乃はそこへ指を触れず、LEVEL3で解放された保管枠へ薬と水を分けて収めた。1周目には自分の所有物へ鍵を掛けることすら、家族を疑う冷たい行為だと責められていた。今は誰にも許可を求めず、自分の命に必要なものを自分の手の届く場所へ置けた。

午前7時を過ぎた頃、個人通話の着信が室内へ響いた。表示されたのは度会篤一の名前だった。応答すると、画面には顎を強張らせた義父の顔が映り、妻を失った男の悲しみより、思いどおりにならない苛立ちの方が濃く浮かんでいた。

「地下倉庫に食料がある。一緒に来い」

「分かりました」

あまりにも素直な返事だったため、篤一は一度眉を上げた。それから自分の命令が通ったことに満足したように鼻を鳴らし、10分後に階段前へ来るよう告げて通話を切った。1周目の灰乃も同じ誘いを受け、家族の食料を確保できるならと疑わず従った。地下で感染者が現れた瞬間、篤一は彼女の背中を突き飛ばし、その身体を囮にして1人で逃げた。

灰乃は襲われながらも生き残り、倉庫から缶詰を抱えて戻った。ところが篤一は自分が彼女を押したことを誰にも話さず、灰乃が運んだ缶詰の中から肉の入ったものを選んで泉帆へ差し出した。「若い女は食わせとかないとな」と笑う彼の前で、灰乃へ渡されたのは空になった紙箱だけだった。空腹よりも、助けを求めた時に背中へ触れた掌の硬さが長く残った。

階段前で待っていた篤一は、片手に金属バットを持ち、灰乃の装備を値踏みするように頭から足元まで眺めた。登志江のことを尋ねるでもなく、昨夜の責任を追及するでもなく、「女は後ろで余計なことをするな」と言って先に階段を下り始める。口では先導しながら、危険の気配が濃くなるほど歩幅を緩め、灰乃を自分より前へ出そうとしていることも以前と同じだった。

地下1階の防火扉を抜けると、湿ったコンクリートの匂いに腐敗臭が混じった。非常灯は半分が消え、食料倉庫のある通路は奥へ進むほど暗くなっている。灰乃は靴紐を直すふりをしてしゃがみ、篤一が倉庫の案内板へ目を向けた隙に、誘導臭カプセルの蓋を捻った。甘く腐った果実に似た匂いが一瞬だけ鼻先を掠める。彼女は容器を防火扉の向こう側にある排水溝へ滑り込ませ、何事もなかったように立ち上がった。

「何をもたもたしてる。さっさと来い」

篤一は低く叱り、今度こそ灰乃を先へ行かせた。通路の先には、1周目と同じように半分上がった倉庫のシャッターが見えている。その向こうから、靴底ではないものが床を擦る音がした。1周目の灰乃はその音に気を取られ、背中を押されるまで篤一が真後ろへ移ったことに気づかなかった。床へ倒れた時には掌の皮が剥け、感染者の指が足首へ絡みついたが、逃げていく義父は一度も振り返らなかった。30秒という時間を数える必要はなかった。背後へ回った篤一の息遣いと、肩甲骨へ向かって伸びてくる気配を、灰乃の身体は死の記憶より正確に覚えていた。

「灰乃、先に見てこい」

灰乃は返事をせず、足音がもう一つ近づくまで待った。篤一の掌が背中へ触れる寸前、身体を半歩だけ横へずらす。押すために体重を預けていた篤一は支えを失い、金属バットを取り落としながら前へよろめいた。排水溝から広がった誘導臭へ反応し、シャッターの奥で複数の影が一斉に顔を上げる。

「前は、私を押しましたね」

「何を言って――」

篤一が振り返るより先に、灰乃は後ろ向きに防火扉の内側へ下がった。感染者の足音が急速に重なり、暗がりから濁った目と開ききった口が現れる。篤一はようやく危険を悟って戻ろうとしたが、灰乃は両手で防火扉を引き、男の身体が敷居へ届く直前に閉じた。閂が落ちる硬い音と、外側から篤一がぶつかった衝撃がほとんど同時に伝わった。

「開けろ! 灰乃、開けろ!」

扉の向こうでバットが床を転がり、感染者の爪が鋼板を掻いた。篤一は何度も取っ手を回し、肩を打ちつけ、声を裏返して灰乃の名を呼んだ。昨夜の登志江と同じように命を乞いながら、それでも謝罪だけは口にしなかった。

「家族だぞ! お前は航志の妻だろうが!」

「便利な言葉ですね」

「ふざけるな! 俺を誰だと思ってる!」

灰乃は扉へ背を預けず、少し離れた位置に立ったまま音を聞いた。怒鳴り声は途中で短い悲鳴へ変わり、何か重いものが鋼板へ叩きつけられる。指先が冷え、胸の奥では心拍が一度だけ不自然に間を空けたが、彼女は呼吸を急がせないよう鼻から細く息を吸った。扉を開けば助けられるかもしれないという考えは浮かばなかった。1周目に自分を押した掌が、この世界ではまだ罪を犯していないとしても、今しがた同じ動きを繰り返したことを灰乃は見ている。

激しい衝撃は次第に弱まり、人の声と獣じみた唸りが区別できなくなっていった。やがて端末が小さく震え、〈プレイヤー度会篤一の死亡を確認しました〉と表示する。灰乃は通知だけでは動かず、扉の向こうで肉を引きずる音が遠ざかるまで待った。すべてが静まってから階段を上り、自室へ戻ると、血に触れていない両手を時間をかけて洗った。水へ溶け出す汚れはなかったが、掌に残った感覚だけは消えなかった。篤一が死んだことで空腹が満たされるわけでも、過去の傷が塞がるわけでもない。灰乃は広告報酬の保存水を一口飲み、高栄養ビスケットを半分だけ噛み砕いた。乾いた粉が喉へ貼りつく感触さえ、自分の分として確保された食事であることを確かめる印のように思えた。

午後6時、補強された扉の外で夜間保護開始の警告が鳴った。灰乃が保存水を少しずつ飲んでいると、壁面端末へ〈周辺居室ランキングを公開します〉という新しい通知が開く。居室レベル、生存日数、設備保有数を基準にした一覧の最上段には、白い文字で〈1位 蓼丸灰乃・LEVEL3〉と表示されていた。名を隠す設定はまだ解放されておらず、同じ区域の全員がそれを見ることになる。

数秒後、航志から映像通話が入った。灰乃が応答すると、画面の中の彼は髪を乱し、頬を強張らせていたが、母と父を同じ日に失った人間の目をしてはいなかった。彼の視線は灰乃の顔より先に、背後の補強された壁や端末の表示を探り、唇の端には計算を始めた時の癖が浮かんでいる。

「母さんも父さんも死んだ。なのに、お前だけどうしてLEVEL3なんだ」

灰乃は答えず、画面越しに夫の目を見返した。航志は沈黙を悲しみとは受け取らず、隠し事を認めた証拠だと決めつけたように身を乗り出す。声を落としたのは妻を気遣ったからではなく、他の誰かへ聞かせたくない話になったからだった。

「……何を隠してるんだ、お前」

そこには、登志江の最期を聞こうとする色も、篤一と行動していた灰乃が無事だったことへの安堵もなかった。灰乃が生きているという事実さえ、航志にとっては資源の所在を示す印にすぎない。彼の目が欲しがっているものを見誤るほど、灰乃はもう妻ではなかった。通話を切る直前まで航志が見つめていたのは、灰乃の命ではなく、灰乃が手に入れた力だった。

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  • 『広告を見るだけで終末を無双した私、最強プレイヤーに「その元夫は捨てて。俺と組め」と迫られました』   第10話 2人を助けるため2人を殺す

    投票開始から10分も経たないうちに、蓼丸灰乃と縵谷玄理の名前は他の候補を大きく引き離していた。世界チャットには投票数とともに理由らしき言葉が積み重なり、その多くが航志の書き込みを引用している。彼は昨夜、感染者へ〈誘導標識〉を取り付けて灰乃の居室へ群れを集め、高出力砲台まで向けたことには一言も触れなかった。代わりに、灰乃と玄理が大量の特殊アイテムを所持していること、2人とも高レベルであること、他の生存者より危険区域へ耐えられる可能性が高いことだけを並べ、「最も生存率の高い2人へ任せるのが合理的だ」と繰り返していた。殺すために送り出すのではなく、強い者へ役目を任せるのだという形へ言い換えれば、投票する側も自分の指を汚さずに済む。〈縵谷玄理はLEVEL5だ。外へ出ても戻れる可能性がある〉〈蓼丸灰乃も特殊装備を持っているんだろ。俺たちより生存率は高い〉〈家族を3人も見捨ててるなら、今度は他人を助けてもいいんじゃないか〉流れていく文章を追いながら、灰乃は端末を膝の上へ置いた。多数決は、人数が増えるほど正しさに似た顔をする。自分1人では押せないボタンも、100人のうちの1票になれば押せる。強い人間なら死なないかもしれない、資源を持つ人間なら少しくらい奪っても困らない、家族を見捨てた女なら自分たちのために犠牲になっても当然だと、それぞれが少しずつ理由を持ち寄れば、最後には誰も自分が2人を殺したとは思わなくて済む。玄理は壁面端末へ表示された規則を何度も開き直していた。右肩の包帯には薄く血が滲んでいるが、先ほどから痛みを訴える様子はない。〈生存バインドペア1組を指定〉という条件を押し、排出対象の設定、投票方式、バインド解除の可否まで確認している。灰乃も隣から表示を追ったが、解除項目は灰色に閉ざされ、現在の親密度10では操作できないようになっていた。「俺だけ外へ出られないか試す」玄理が言った。灰乃はすぐに顔を上げた。「1人で出れば投票条件が満たされません」「条件を満たす必要はない。俺が先に夜間領域へ出れば、対象ペアとして成立しなくなる可能性がある」「それでも試すんですか」「他に何かあるか」玄理は本気だった。自分だけを排出させ、灰乃とのペアそのものを投票不能にできれば、少なくとも彼女は残せると考えている。その発想が出たこと自体には驚かなかった。玄理は手が届く位

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